【動画】ヤマトグループ100年のあゆみ!【後編】“どん底”を乗り越えた挑戦
2021.09.08
「歴史館に行ってみたいけれど足を運ぶことができない」という皆さんにも楽しんでいただくため、歴史館をご紹介する動画をご用意しました。
後編では、ヤマトが“どん底”から這い上がるために、社運をかけて取り組んだ「宅急便」開発物語をご紹介します。
それでは、ヤマトグループ100年の歴史を、最後までお楽しみください。
「ようこそ、ヤマトグループ歴史館 クロネコヤマトミュージアム」へ!
“いざ、「宅急便」開発の歩みをたどる道へ!”
まずはこちらをご覧ください!
▲クロネコヤマトミュージアム紹介動画
古着がきっかけ?宅急便の始まり
小倉昌男は息子のお古の洋服を親戚に送ろうとした時、国鉄小荷物、郵便小包の荷造りが非常に面倒であることや、窓口への持込み、いつ届くかわからないというサービスの質の低さを目の当たりにし、家庭から家庭への荷物を運ぶ市場に着目しました。
家庭から出る荷物は、偶発的、非定期的で集荷効率が極めて悪いため、事業化は困難だというのが業界の常識でしたが、小倉昌男は、地域別料金、荷造り不要、翌日配達などお客さまの立場に寄り添ったサービスを開発したのです。
役員全員の反対を説得して実現
しかし、宅急便を本格的な事業として展開しようとする小倉昌男に対して、役員は全員反対しました。昌男は一つひとつ反論し、この大きな潜在市場を手中に収めるには、どこよりも早く事業を始めなければならないと訴えます。
そこで心強い腹心として路線部長だった都築幹彦を取締役に抜擢し、役員会に出席させる一方、労働組合の協力を得るため労組委員長への交渉を都築に託しました。こうして立ちはだかる障害を次々と乗り越えていったのです。
小倉昌男が自らまとめた「宅急便開発要綱」に沿って、具体的な宅急便サービスの内容を固めるため、1975(昭和50)年9月、ワーキンググループが結成されました。
労働組合のメンバーも含む10名ほどのグループは、集中的に討議を行い、取り扱う荷物のサイズ、重さ、料金、集荷方法、翌日配達、伝票など、気軽に荷物が送れるサービスの骨子を2ヵ月ほどで作り上げました。
▲映像6_宅急便開発ワーキンググループ
「全員経営」を象徴するSD
お客さまがもっと便利に荷物を出せるように身近な燃料店や米屋、酒屋などに「取扱店」になってもらいました。取扱店には荷物1つにつき100円の手数料を支払い、荷物を持ち込んだお客さまへも100円の割引をします。取扱店の数はどんどん増え、さらに全国展開のコンビニチェーンとも契約したことで、1980年代末には20万店に達しました。
小倉昌男は、宅急便を始めるときに運転手の呼び方を「セールスドライバー(SD)」に変更。SDの仕事は、それまでの営業する人、荷物を運ぶ人という分業制から、仕入れ・仕込み、接客しながら寿司を握る「寿司職人」のように、集荷・集配だけでなく、営業や集金、接客などすべて一人でこなすことになりました。単に荷物を運ぶだけでなく、お客さまが何を求めているかを自分で考え、行動する「全員経営」の姿勢をSDが象徴しています。
小倉昌男の講演映像
今や私たちの生活に欠かせない宅急便。その宅急便を創始したのが小倉昌男です。
前編、後編にわたり、皆さんと一緒に歴史館を巡りながら100年の歴史を振り返ってきました。楽しんでいただけましたでしょうか?
「もっと歴史について知りたい!」という方は、『ヤマトグループ100年史』をぜひご活用ください!
コンテンツから探す
冊子
シゴト
ニュース
福利厚生
プレゼント・投稿
コンテンツから探す
冊子
シゴト
ニュース
福利厚生
プレゼント・投稿
冊子






